内六番櫓跡

内六番櫓跡周辺地図

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この櫓は通説では個別の名称が不明となっていますので、阿部氏の時代の呼称「内六番櫓」が使われています。

しかし、江戸時代中期の地誌「備陽六郡志」には次のような記述があります。

人質櫓 神辺ゟ来 乾之方に有 

本丸で乾(北西)に位置する櫓は内六番櫓以外にありませんが、現在はなぜか西(酉)に位置する内八番櫓が人質櫓とされています。

また、「人質」という名称の正確な由来はわかっていませんが、語感的には通用門(台所門)のそばで城下からもよく目立つ内八番櫓の位置よりは、裏門(棗門)のそばで不吉とされる裏鬼門の方角でもある内六番櫓の位置である方がふさわしいように思えます。

櫓は明治初期に取り壊され、古写真も残っていないため正確な形状はわかっていません。櫓南側の石垣は1940年(昭和15年)に城北側の登城道路の設置より撤去され現在は櫓台の北半分が残されています(削られた南面は石垣で埋められています)。