内九番櫓跡(通説:火灯櫓)

内九番櫓跡(通説:火灯櫓)周辺地図

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近年まで「火打櫓」と呼ばれていましたが、この名称は二重の間違いがあると思われます。

まず、文献では「火」という記載は見当たらず、「火」または「火」と記載されていますので、おそらく近代に郷土史家が部首を間違えてこれが定着してしまったのだと思われます。

もうひとつは、江戸時代中期の地誌「備陽六郡志」では

火灯櫓 右同断 時之鐘之後に有。

と記されていて、たしかにこの櫓(内九番櫓)は鐘楼の側にありますのでこれが内九番櫓=火灯櫓の根拠になっているのですが、備陽六郡志にはこれとは別に、

荒布櫓 右同断 坤之方に有。

と、この方角(南西=坤)にある櫓は荒布櫓だと書かれていることです。

南西にある櫓は内九番櫓跡以外にないので別の解釈の入る余地はありませんが、火灯櫓の「時之鐘之後」は鐘楼の北側に位置する内八番櫓という見方もできますので、内九番櫓は火灯櫓ではなく荒布櫓である可能性が極めて高いと思われます。なお、通説では南西にあるはずの荒布櫓がなぜか西北(戌)の内七番櫓だとされています。

櫓は明治初期に取り壊され、古写真等も残されていませんので正確な形状は不明です。

2022年に設置された案内板は「火灯櫓」から「火灯櫓」に訂正されましたが、櫓の名称そのものが見直されることはありませんでした。